初診時の診断:「中立咬合 叢生歯列 下後退顎」
今回は、先代の院長である父の代から歯の生え変わりの経過観察をおこない、永久歯列が生え揃ってから両突歯列(上下顎前歯の唇側傾斜)による口唇の突出感を改善するために抜歯による矯正治療をおこなったMさんの症例紹介です。治療の経過について解説をおこないます。
■初診時
現症および主訴
初診時(2001年)年齢は7歳の女性で、保護者が前歯部の叢生を気にして来院されました。すでに下顎左側6番に金属の修復物であるインレーが装着されていました。
経過観察の治療方針
前歯部の叢生(歯の高さのズレや捻転)は軽度であり、今後の永久歯の萌出および顎骨の成長により改善していく可能性があるので永久歯が生え揃うまで正常な生え変わりを促しながら経過観察をおこなうこととしました。当時はむし歯と歯周病予防のためのリスク検査はおこなっておらず、現在と比較して十分な設備も衛生士の教育も整っていなかったため簡単な歯磨き指導のみおこないながら経過観察を続けました。
2006年に当院のシステムにむし歯のリスク検査として唾液検査を導入したので唾液検査をおこない、検査結果に従ってむし歯のリスクコントロールとして専用機械による歯磨き(PMTC)やブラッシング指導、フッ素塗布などをおこないました。
※以下より画像をクリックすると大きい画像が見れます。
2001年7歳10ヵ月 初診時の顔貌および口腔内写真
初診時のパノラマX線写真
2006年唾液検査開始時の口腔内写真
■ 2008年14歳8ヵ月 動的治療開始時の現症
顔貌所見
骨格的には下顎骨が僅かに劣成長で上顎骨に対してやや小さいものの比較的良好なバランスを呈していました。側貌において口唇閉鎖時の口唇周囲軟組織の突出感(特に下唇の突出感が強い)および口唇閉鎖時の緊張感を認め、原因は前歯の唇側傾斜によるものと思われました。正貌における明らかな非対称性は認められませんでしたが下唇の突出感により下唇は厚く見えました。
口腔内所見
永久歯の萌出により、上下顎前歯部の叢生は依然として残っているもののあまり重度ではありませんでした。12歳頃より萌出し始めた第2大臼歯は顎骨に対して萌出余地が不足していて十分に萌出できず歯が傾斜していました。
X線写真所見
頭部X線規格写真(セファロ)により、上顎骨に対して下顎骨はやや後方に位置し上下顎骨の歯の並ぶ前後的な奥行きがなく、骨格的に叢生もしくは前歯が唇側傾斜しやすい傾向を認めました。パノラマX線写真では上下顎左右に第3大臼歯(親知らず)の埋伏を認めました。
唾液検査・歯周組織検査
唾液検査では、むし歯の原因菌であるミュータンス菌が多いものの、唾液の量や性状、フッ素使用の習慣などにより総合的にむし歯のリスクは低い傾向にあることがわかりました。また、歯肉からの出血が大臼歯部から認められることから成長とともにリスクが上昇する歯周病に対して注意を払う必要があると考えられました。
特記事項
特記事項はありませんでした。
■治療方針
診断は 大臼歯関係Angle class I・両突歯列・叢生歯列としました。
本来の主訴である叢生を改善するために、第1小臼歯4本抜歯による治療方針を説明しました。非抜歯による矯正治療も可能な症例ですが、非抜歯の場合に前歯が唇側に傾斜し口唇の突出感や緊張感が改善しない、もしくはさらに悪くなる可能性があること、リテーナー終了後に後戻りして、治療する前とほとんど同じ状態になる可能性があること、後戻りしてから再治療をする場合は抜歯による治療となることから非抜歯を希望される場合は矯正治療をおこなわない方が良いことを説明しました。
その結果、上下顎左右第1小臼歯の抜歯による治療をおこない、第1大臼歯は近心(前方)に移動し第2大臼歯の萌出余地を獲得し、残りのスペースは前歯の後退により閉鎖し、口唇の突出感を改善する方針としました。動的治療期間は約30ヵ月を予定しました。
矯正治療開始前に、矯正装置を装着することで歯が磨きにくくなり、むし歯と歯周病のリスクが高まるため、これまでの経過観察以上にしっかりとしたむし歯と歯周病の予防方法やメインテナンスが必要であることを説明し、徹底したPMTC(歯科衛生士による歯面クリーニング)、スケーリングによる歯石除去、フッ素の使用法やブラッシング方法の指導などを中心とした家庭での口腔衛生管理方法の改善のための初期治療をおこない、むし歯と歯周病のリスクが減少したことを確認してから矯正治療を開始することとしました。矯正治療中もリスクが再度上昇するので毎回のワイヤー調整時に上下のワイヤーを外して全顎的に歯肉縁上縁下のバイオフィルムを除去するためのクリーニングによるメインテナンスをおこなうこととしました。
■動的治療開始時
初期治療後に再評価をおこない、歯の磨き残しがほとんどなくなり、診療室でPMTC後のフッ素塗布を繰り返しおこない歯質の強化をおこなった後、抜歯をおこなってから上下顎に矯正装置を装着して治療を開始しました。
動的治療開始時
動的治療終了時
動的治療期間および経過
実際にかかった動的治療期間は約24ヵ月、調整回数は24回、平均的な来院間隔は1ヵ月でした。無断キャンセルなどはなく、治療に対する協力も良く、成長期で歯の移動がスムーズに進んだことにより予定の治療期間より短い期間で動的治療を終えることができました。
顔貌所見
矯正治療により、前歯が後退したことで口唇の突出感が改善しました。特に下唇の突出感が改善されました。
口腔内所見
上下歯列の抜歯スペースは叢生の改善と前歯の後退、大臼歯の近心移動により閉鎖され、第2大臼歯の萌出余地不足が解消され傾斜が改善されました。
■ 保定完了時
動的治療終了後に上顎にはベッグタイプリテーナー、下顎はFSWを接着して保定を32ヵ月間おこないました。保定期間中には動的治療終了時の唾液検査結果を元にリスクを下げる初期治療をおこなってから、メインテナンスと萌出してきた親知らずの抜歯をおこないました。矯正歯科的な管理としては約3ヵ月に1回のリテーナーチェックとホワイトニングをおこないました。
顔貌所見
保定期間中に咬合状態はより安定し叢生の後戻りなどはなく、軟組織に大きな変化は認めませんでした。
口腔内所見
肉眼では判断できませんでしたがレーザー光によるう蝕診断*の結果、第2大臼歯咬合面の脱灰がわずかに進んだため、フッ素配合の予防用充填材(シーラント)を充填し再石灰化を促すこととしました。
X線写真所見
X線写真所見では、明らかな歯根吸収や歯槽骨吸収などを認めず歯根もほぼ平行に配列されています。保定期間中に8番(親知らず)の抜歯をしましたが歯槽骨も回復していることが確認できました。
セファロX線写真の重ね合わせにより上顎前歯が後退し、大臼歯が近心に移動して抜歯スペースが閉鎖したことがわかります。
――初診時 —-動的治療終了時 ――保定完了時 の順序で色分けし重ねあわせをおこなっています。初診時に比較して前歯が後退し、前歯が後退したことで口元の突出感が改善したことがわかります。突出感の改善は特に下唇で大きく認めます。動的治療終了時の赤い線があまり見えないのは保定完了時の緑の線と重なっているためで、保定期間中に歯の後戻りなどの大きな変化がなかったことを示しています。
■ 側貌および口腔内の動的治療開始から完了までの変化
初診時 → 動的治療終了時 → 保定完了時
う蝕と歯周病のトータルリスク比較
う蝕のトータルリスク比較
う蝕のトータルリスクは初唾液検査時「10」→動的治療開始時「7」→動的治療終了時「8」→保定完了時「5」と減少し安定しました。これは、歯の磨き残しであるPCRやフッ素の使用状況によるリスクが減少したこと、かみ合わせが安定したことや口唇が閉鎖し易くなったことにより咀嚼能率が高まり唾液の分泌量が増加したこと、叢生の改善により歯が磨きやすくなったことで磨き残しが減少したと考えられました。
5分間の刺激唾液量
歯周病のトータルリスク比較
歯周病のトータルリスクは動的治療開始時「2」→動的治療終了時「3」→保定完了時「2」と減少し安定しました。Mさんは10代で矯正治療を開始しているので元々歯周病のリスクは低いのですが、矯正治療中や治療後に歯周病の進行は認められませんでした。20代の後半から歯周病のリスクは加速度的に上昇していくので保定完了後もメインテナンスをすることで歯周病のリスクを低い状態で維持する予定です。
PCR、BOP、4mm以上の歯周ポケットの比較(%)
- PCR(むし歯と歯周病の原因菌の付着を示す歯の磨き残し)
- BOP(歯周病の原因菌による炎症を示す歯肉からの出血)
- 4mm以上の歯周ポケット
(歯周ポケットが4mm以上になると歯周病の原因菌による歯槽骨の破壊)
■ 考察
「矯正治療は美しくなるためだけにおこなうものではないが、美しくならなければ意味がない」この言葉は先代院長である父の師匠の言葉で、父はこの言葉を大切にして矯正治療をおこなっていました。僕も父の意志を引き継ぎ、矯正治療の目的が機能の改善にあることは言うまでもありませんが、それだけでなく口元が治療前より美しくならなければ、それは良い矯正治療とは言えないと考えています。
近年、歯を抜かない矯正治療を売りにする矯正歯科医を多く見受けますが、歯ならびが悪くなる原因は顎の骨の中に歯が入りきらないことが最も大きな原因です。この原因をそのままにして歯ならびを治そうとすると副作用として口元が突出して審美性を損なったり、きちんとしたかみ合わせを作ることができずに機能を失ったり、せっかく矯正治療をしたのに元通りに戻ってしまい時間とお金の無駄使いになっている患者さんの相談を良く受けます。
本症例のように歯のでこぼこが軽度で歯ならびとしては顕著な問題がないものの大臼歯が生えきらずに将来のむし歯や歯周病のリスクを改善する必要や口元の突出感を改善する場合、矯正治療をおこなうのであれば機能と審美性を徹底的に改善しなければならず、非抜歯での治療を希望される場合には治療をしないという選択肢が患者であるMさんにとって最も良い判断であると考えました。
一方で抜歯による矯正治療をおこなっても、前歯が十分に後退せず審美性が改善しない、大臼歯が歯肉に埋まったままになる、歯根吸収が起きて治療開始前より歯の状態が悪くなる、口腔衛生管理が不十分でむし歯や歯周病が進行してしまうなどの状態になっては矯正治療をしたことによって歯の機能や審美性を失うことにもなりかねません。最悪の場合は、非抜歯による矯正治療同様に矯正治療をしない方が良かったということも起こりえます。本症例ではそのような失敗がないように、矯正治療開始前の経過観察期間からむし歯と歯周病予防の管理をおこない、矯正治療開始前に精密な検査や綿密な治療計画を立て歯の移動を正確におこなうこと、動的治療後もメインテナンスによりむし歯と歯周病の予防ができたため機能と審美性を兼ね備えた歯、歯並び、口元を創り出すことができたのではないかと考えています。
リテーナーの完了を持って矯正治療は完了となりますが、これからもむし歯や歯周病が進行したり、加齢変化により口腔内の環境が変わり歯並びも変化することが考えられます。今後はむし歯と歯周病予防のためのメインテナンスにより健康な歯、歯並び、口元を守り続けて行きたいと考えています。そしてMさんが80歳になった時にも今と変わらないきれいな歯、歯並び、口元を保ち、美味しいものを食べられて、楽しくお話ができた時に私たちの歯科医療は価値あるものであったと確信できると思います。
永久歯の矯正治療(Ⅱ期)の目安
- 治療内容
- オーダーメイドのワイヤー矯正装置で治療を実施します。(スタンダードエッジワイズ法)
- 治療に用る主な装置
- マルチブラケット装置、症状により歯科矯正用アンカースクリューを用いる場合もあります。
- 費用(自費診療)
- 約1,280,400円~1,472,900円(税込)
※検査料、月1回の管理料等を含む総額 - 通院回数/治療期間
- 毎月1回/24か月~30か月+保定
- 副作用・リスク
- 矯正装置を初めて装着後は、歯を動かす力によって痛みや違和感が出たり、噛み合わせが不安定になることで顎の痛みを感じる場合があります。
歯を動かす際に歯の根が吸収して短くなる、歯ぐきが下がる場合があります。
治療中は歯みがきが難しい部分があるため、お口の中の清掃性が悪くなってむし歯・歯周病のリスクが高くなる場合があります。
歯を動かし終わった後に保定装置(リテーナー)の使用が不十分であった場合、矯正歯科治療前と同じ状態に戻ってしまうことがあります。 ・
長期に安定した歯並び・噛み合わせを創り出すために、やむを得ず健康な歯を抜く場合があります。